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2010年9月10日金曜日

久々の更新

 長い間ご無沙汰でした。しかし今後もご無沙汰になること間違いなしでしょう。

今日は気が向いたので、ちょっと書きたいと思います。

 最近は映画を控えております。
 なぜなら自分は映画を観るに値するような、いや、映画好きって言っていいような観賞眼とでもいいましょうか、それとも感受性とでも言いましょうか、が大きく欠けていることに気づいたのです。実は前々から疑ってはいたんですが、それがはっきりいたしました。私がおもしろいと思える映画は「------!」みたいな映画です。何が言いたいかと申しますと、最後さえ感動できれば途中がどうあれおもしろいじゃん!!っていう映画しかおもしろいと思えないのです。映画はやっぱりすべて、つまり、音声、映像、内容、登場人物、演技、セリフ、演出、カメラワークなどなどがひとつになって映画といえます。というか、それが映画です。私にはその10以上はある(もちろん細かく挙げていけば100個以上あるでしょう)映画の要素を解さないのです。私は途方にくれました。自分に落胆しました。まぁ最後の盛り上がらない映画のつまらないのなんの!いや、つまらないとまでは言いません。でも観終わった後の満足感がまるで得られないのです。わかりやすい内容でわかりやすい感動の結末さえ用意してくれれば私はどんな映画にも感動します。どんな映画にもおもしろかったといいます。あぁ、なんと残念なことでしょう。自分の運命はもちろんのろいません。しかし、そうやって育ってきた自分が悲しいです。なによりもそんな器で映画を観ていたのかと思うと、今にもアリ地獄に吸い込まれそうです。もちろん、私が映画を観ちゃいけないなんて制約はどこにも存在しません(R指定は存在します)。しかし、そこが問題ではないのです。わかるでしょうか。あなたにこの気持ちが推し量れるでしょうか。今まで普通の人よりは映画を観てきたつもりです。だからといってどうしたのでしょう。私の感動できる(そういうとわかりやすいと思って使っています)映画なんか所詮その程度の映画だったのです。中にはもちろん名作もあったことでしょう。名作は誰が観ても名作なのでもちろん私が観ても名作です。しかし、わたしはその名作を毛ほども語ることを許されないでしょう。どうしてこうなのでしょう。名作たちに失礼です。長くなりましたが、そういう理由から映画を控えております。控えている間にもっともっと出来る限り映画に近づけるように自分を鍛えたいと思います。もちろんそうしてる間にも少しは映画を観ます。
映画は好きです。しかし、今の私にその本当の価値は見出せません。

 

 もうひとつ書きます。「暇とお金」について少しだけ。
 「金はないが、暇はある」という言葉を一度は耳にしたことがあるでしょう。ええ、もちろん私もある気がします。この表現は残念ながら本質がまったくつかめていません。私は「金がないから、暇がある」のです。金がなくても暇はつぶせる。いやその意見もごもっともでしょう。か?本当にそうでしょうか?もし私が小学生にも匹敵するぐらいの感受性と好奇心を持っていたら、それも可能でしょう。しかし、人間は歳をとっていくにつれて感動できることが減っていきます。言い換えれば、鈍感になっていくのです。今の私はそこまで鈍感じゃありませんが、神経を刺激するほどの刺激をお金なしに味わえるかといったら無理です。お金はそれ自体ももちろん神経を刺激します。しかし、その刺激ほど低劣なことはないでしょう。そしたら、そんなものは捨てて他の刺激にまわしましょう。やはり私はいわゆる現代人なのでしょうか。刺激を感じることができにくくなっている。本当でしょうか。そうは思いません。私も昔の人と同じくらい刺激を味わえるはずです。しかし、お金がありません。だから暇なのです。ただ単に脳に刺激が足りないのです。その刺激を読書などからえらられば苦労はありませんが、それは私にとっては無理なことなのです。お金はその存在が極めておかしなものですが、暇つまり脳への刺激の不足を満たすという大きな役割を持っています。お金はそういう意味ではとても大切なものです。とくに今は大切です。別に暇が怖いわけではありません。しかし、やはり少しは恐怖します。もちろん脳が私もつかさどっていますから当然です。学生と暇とお金はとても深い関係にあります。そんなこといまさら言われなくてもわかってるわ!って思ったひと!嫌いです。

 
 そんなこんなでふたつのテーマを扱ってみました。でも読者が二人なのでひとりひとつといった感じでしょうか(意味不明ですね)。もう少し読者を増やしてみます。どうやって?わかりません。

 それではまた遠い未来で逢いましょう。