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2011年5月28日土曜日

今度こそ!

ということで、週1くらいで更新することにした。自分の居場所を求めて、人とのつながりを求めて。
多分、一ヶ月くらいもすれば週1くらい更新するのも苦になって難しくなるだろう。しかし、だからこそ今回のタイトルなわけである。( ´ ▽ ` )ノ

2010年9月10日金曜日

久々の更新

 長い間ご無沙汰でした。しかし今後もご無沙汰になること間違いなしでしょう。

今日は気が向いたので、ちょっと書きたいと思います。

 最近は映画を控えております。
 なぜなら自分は映画を観るに値するような、いや、映画好きって言っていいような観賞眼とでもいいましょうか、それとも感受性とでも言いましょうか、が大きく欠けていることに気づいたのです。実は前々から疑ってはいたんですが、それがはっきりいたしました。私がおもしろいと思える映画は「------!」みたいな映画です。何が言いたいかと申しますと、最後さえ感動できれば途中がどうあれおもしろいじゃん!!っていう映画しかおもしろいと思えないのです。映画はやっぱりすべて、つまり、音声、映像、内容、登場人物、演技、セリフ、演出、カメラワークなどなどがひとつになって映画といえます。というか、それが映画です。私にはその10以上はある(もちろん細かく挙げていけば100個以上あるでしょう)映画の要素を解さないのです。私は途方にくれました。自分に落胆しました。まぁ最後の盛り上がらない映画のつまらないのなんの!いや、つまらないとまでは言いません。でも観終わった後の満足感がまるで得られないのです。わかりやすい内容でわかりやすい感動の結末さえ用意してくれれば私はどんな映画にも感動します。どんな映画にもおもしろかったといいます。あぁ、なんと残念なことでしょう。自分の運命はもちろんのろいません。しかし、そうやって育ってきた自分が悲しいです。なによりもそんな器で映画を観ていたのかと思うと、今にもアリ地獄に吸い込まれそうです。もちろん、私が映画を観ちゃいけないなんて制約はどこにも存在しません(R指定は存在します)。しかし、そこが問題ではないのです。わかるでしょうか。あなたにこの気持ちが推し量れるでしょうか。今まで普通の人よりは映画を観てきたつもりです。だからといってどうしたのでしょう。私の感動できる(そういうとわかりやすいと思って使っています)映画なんか所詮その程度の映画だったのです。中にはもちろん名作もあったことでしょう。名作は誰が観ても名作なのでもちろん私が観ても名作です。しかし、わたしはその名作を毛ほども語ることを許されないでしょう。どうしてこうなのでしょう。名作たちに失礼です。長くなりましたが、そういう理由から映画を控えております。控えている間にもっともっと出来る限り映画に近づけるように自分を鍛えたいと思います。もちろんそうしてる間にも少しは映画を観ます。
映画は好きです。しかし、今の私にその本当の価値は見出せません。

 

 もうひとつ書きます。「暇とお金」について少しだけ。
 「金はないが、暇はある」という言葉を一度は耳にしたことがあるでしょう。ええ、もちろん私もある気がします。この表現は残念ながら本質がまったくつかめていません。私は「金がないから、暇がある」のです。金がなくても暇はつぶせる。いやその意見もごもっともでしょう。か?本当にそうでしょうか?もし私が小学生にも匹敵するぐらいの感受性と好奇心を持っていたら、それも可能でしょう。しかし、人間は歳をとっていくにつれて感動できることが減っていきます。言い換えれば、鈍感になっていくのです。今の私はそこまで鈍感じゃありませんが、神経を刺激するほどの刺激をお金なしに味わえるかといったら無理です。お金はそれ自体ももちろん神経を刺激します。しかし、その刺激ほど低劣なことはないでしょう。そしたら、そんなものは捨てて他の刺激にまわしましょう。やはり私はいわゆる現代人なのでしょうか。刺激を感じることができにくくなっている。本当でしょうか。そうは思いません。私も昔の人と同じくらい刺激を味わえるはずです。しかし、お金がありません。だから暇なのです。ただ単に脳に刺激が足りないのです。その刺激を読書などからえらられば苦労はありませんが、それは私にとっては無理なことなのです。お金はその存在が極めておかしなものですが、暇つまり脳への刺激の不足を満たすという大きな役割を持っています。お金はそういう意味ではとても大切なものです。とくに今は大切です。別に暇が怖いわけではありません。しかし、やはり少しは恐怖します。もちろん脳が私もつかさどっていますから当然です。学生と暇とお金はとても深い関係にあります。そんなこといまさら言われなくてもわかってるわ!って思ったひと!嫌いです。

 
 そんなこんなでふたつのテーマを扱ってみました。でも読者が二人なのでひとりひとつといった感じでしょうか(意味不明ですね)。もう少し読者を増やしてみます。どうやって?わかりません。

 それではまた遠い未来で逢いましょう。

2010年7月4日日曜日

現代へのアンチテーゼ



 かっこいいタイトルをつけてみました。どうも楽天的な臆病ものです。
 
 本日、みなさんご存知スタジオジブリ不朽の名作『天空の城ラピュタ』を鑑賞いたしました!ちょっと待てよ!これ1位ちゃうか?ってくらいすばらしい作品でした。もちろん監督・脚本・演出?(最後の三つめわかりませんが)は我らが宮崎駿監督です。携帯の変換にも一発ででること間違いなしの超人間級の天才です。ほめすぎました。そして音楽は我が師(気持ち)である久石譲殿でございます。記憶が正しければこの作品からジブリの音楽を手がけるようになったのかと。内容はみなさんご存知のはず!ですので私の解釈や感想を書きます。ちなみにかなり雑でネットに書き込んだら炎上するんじゃないか?ってくらい幼稚なものなので是非見てやってください。



 時はイギリスかどこかの産業革命の時代(人類の発展つまり科学や工業技術の発展です)。バズー?パズー?少年は国宝級の少女シータまたの名をルシータ・トエル・ウル・ラピュタ(うろ覚え)に出会います。この場面がもう感動的ではなっから名作オーラがガンガン出ています。そんなことはさておき、この映画なんと現代にこそ必要な映画ではないでしょうか!!それを紆余曲折を経て最終的に結論が出るかわからないあまりに混沌とした説明で解き明かしていきたいと思います。
 まず舞台に注目ですね。最初に書いたように、産業革命の時代です。すべてが技術の発展ひいては人類の発展という名目で進んでいる時代です。人類の発展のためならほかのことなんて知ったこっちゃないぜ!ってことですね。この時代にそれ以外のこと考えている先見の明がある人物はそういなかったことでしょう。そんな時代のはるか昔700年前に現在の人類よりはるかに科学技術の発達した天空文明が存在しました。しかし、映像を見れば明らかのようにこの文明は自然の力により崩壊します。いやあまりに発展しすぎたため崩壊したといってもいいでしょう。700年後の現在その文明の圧倒的な技術=世界を征服できる力を利用しようと、まさかの正統な血統の王族の子孫にあたるムスカ君がシータの前に現れます。どうしてそこを正統な血族にしたんだろうかという疑問もありますが、俺には理解できないくらい深い意味がそこには含まれていることでしょう。ムスカ君のなんと人間らしいことやら!一番人間味にあふれています。あんなに不の側面を成長させた王族もなかなかいないでしょう。「見ろ、人間がゴミのようだ!」なんて言葉人間以外には吐けません。
 さて、話を本筋に戻します。このムスカ君は超文明を使って世界を牛耳ることを目論見ます。そのためには自然で育ったいたいけな少女シータの力(飛行石と呪文)が必要でした。この対比が重要ですね。ムスカ君が裕福な家庭で都会の中で育ったことは見れば明らかでしょう。そんでもってシータの強奪戦が始まるわけですね。なんでもかんでもお構いないしです。盗賊は財宝目当てならシータの命なんてお構いなし。ムスカ君率いる軍側も兵器を使って殺戮行為の限りを尽くします(尽くしません)。そしてムスカ君はあれこれあって力を手に入れることに成功しラピュタを目指します。力を奪うまでに登場するラピュタ文明の機械(=文明)がまぁなんと残酷でシータだけにやさしいことやら。でもここが重要です。なぜかって文明の象徴である機械が文明の行動を阻止するわけですからね。もちろんシータを救うという使命があってのことですが、なかなかおもしろい暗示になっていると考えます。
 自然派の二人シータとパズー(鳥とかにも好かれてる)は盗賊の仲間になってラピュタを目指します。盗賊の船からふたりだけ引き離されて「竜の巣」なかにとりこまれてしまうわけですが、その場面を見るとどうしてもヒッチコックの作品『2001年宇宙の旅』に似ていると思うんですよね。どっちが先か知らんけど明らかに意識してるっしょてな感じもします。つまり文明の届かないような場所に進んでいるかのような暗示です。それで終に天空の城ラピュタに到着するわけですが、そこで待っていたのは超自然派ロボット君でした。鳥の事とか超気にするし、動物たちとも共存しまくりです。つまり滅びた超文明であるラピュタ文明と自然が共生しているんです。なんともアイロニックですね。それでは今の人類はどうでしょう-?
 そんでなんだかんだあってムスカ君は圧倒的な力を手に入れて手始めに軍の人たちを皆殺しにします。ここでの言葉が先ほど述べた言葉です。まぁラピュタの軍事力のすさまじいこと!われわれの住む今の現在でも勝てそうにありません。そんな力を使うムスカ君の行動を見ていられない自然派少女のシータさんはガンバって石を取り返し逃走します。そして見事な忍耐と突破力でまさかのラピュタ入りを果たした、今の日本代表のトップに欲しい存在のパズーいやバズーと合流します。いまさらですが、このバズーっていう少年、かっこいい!バズーとシータはジブリの今後を担う人物像です。これこそがジブリファンが多い原因でもありましょう。この性格は若干ディズニーにおける主人公とヒロインにも似ているかもしれません。
 いよいよ文章にまとまりがなくなってきましたが、頑張りましょう!そんで合流した二人は最後の手段つまり滅びの呪文を使います。この滅びの呪文の短いこと。日常的にも口ずさんじゃうかもねくらいです。たった一言の呪文でラピュタ「文明」は崩壊します。なぜカッコ付けというと文明は崩壊しますが、飾りであったはずの自然の部分は生き残るからです。超自然物の「飛行石」だけが名残といえるでしょうか。つまり古代に繁栄のきわみをつくした超文明が一瞬にして崩壊し、残ったのは手付かずの自然だけです。言い換えれば、人間の作った文明の脆いこと脆いこと。結局自然の力には勝てません。また、文明は自然によっても滅びますが、文明それ自身によっても滅ぶのですね。ここに現代へのアンチテーゼがあるのではないでしょうか。
 今の文明は発展の極みといっても過言ではないくらい発展していますね。終にはしゃべるロボットや人間の遺伝子操作なんてこともできちゃいます。その繁栄の対価として払ってきたのが地球が育ててきた自然です。もちろん人間のものであるはずがありません。しかしその代償として今地球の自然は悲鳴をあげています。いずれは人間も空に行くかもしれませんね。そこで大切なせりふがあります。シータのセリフに「人間は地に着いていないとダメなんだよ!」みたいなセリフがあります。つまり自然と共に生きていかないとダメなんだよってことですね。人間はものすごい年月をかけて今そのことに気づこうとしています。しかし、失ったものを取り戻すのは簡単ではないでしょう。古代に発展した超文明ラピュタでさえも自然に勝てない。まさに超文明ラピュタの結末こそが今人類の歩んでいる道ではないでしょうか。自然に勝つ勝たないの問題ではありません。人間が生きていけるかどうかの問題です。人間は全員あるいみ身勝手でしょう。それもしかたありません、こんだけの知能をもっているんだから。しかし神様はこの世界をおもしろいくらいよくおつくりになられて奉り申し上げまくりなので、身勝手は許しません。
 現在の文明に求められていることはなんでしょう?身勝手な人間が今考えなければいけないことはなんでしょう?書き足りないこともあろうと思いますが、一時間かけてこのメッセージをお伝えしてみました。おいらのオナニー(事故マン)にお付き合いいただいた方には感謝の意をお伝えしたいと思います。

歌舞伎鑑賞教室

 今日は学校のイベント?というか学校が奨励していた歌舞伎鑑賞にいってまいりました。値段は通常大人3,800円の一等席をなんと650円という破格で見れました。まぁ学生だから半額くらいにはなるのかもしれないけど。あと、一等席といっても前の方というだけで「花道」からは一番遠い場所でした。しかし、援助されているだけに文句はいえませぬ。

 このタイトルにもある歌舞伎鑑賞教室というのは国立劇場主催?のイベントでおおくの人に歌舞伎とはどういうものか知ってもらおう!そして定期的に足を運んでもらおう!という趣旨のものです。たぶん中学生か高校生のときに見に行った歌舞伎もこの類のものだった気がします。しかし、そのときは花道も近かったように思います。そんでもってどういった教室かというと、歌舞伎の演目が始まる前に、歌舞伎の基本的な事柄についての説明があります。その司会というか進行役を歌舞伎役者がやるのでなかなか豪華な気もします。たとえば、歌舞伎の歴史から始まって、舞台だったら床が回転するようになってるんだよーとか奥行きが20Mくらいあるんだよーとか、舞台が上下したりするんだよーとか、そんな感じの説明を笑いとともに誰にでもわかるように教えてくれます。しかし日本語を理解しない外人にはわからないかもしれません。その中で何よりも興味深かったのは、歌舞伎役者が化粧をするところを見せてくれるやつです。普段みれるようなものではないと思うのでなかなか刺激的でした。

 今回みた演目?は『身代座禅』というものです。『身代座禅』は狂言に端を発する演目で内容は現代にも通じるところがあるかもしれません。だいぶかいつまんで説明すると、男が妻意外の女性に恋をしていてどうしても会いたいんだけど、その妻である女性が夫のことをめちゃめちゃ好きだから全然そばを離れない。困ったぞということで男は妻に、最近悪い夢を見るから寺々を回ってお清めしてくると提案します。しかし、妻はそれにも反対します。それでは家のちっちゃな寺の中で一日座禅を組んでいるから絶対にじゃまをしないでくれと頼みます。しぶしぶ了解した妻はそれでも夫のことが心配です。そんな妻の性格は知っている夫は座禅を組むふりをして家来?みたいな男に衣を羽織らせて自分の身代わりをさせます。その間に自分は女のところに行きます。ここからが問題。なんと妻がどうしても気になって座禅を組んでいる家来のところにきてしまいます。家来はなんとかばれないようにしますが、どうしても顔だけでもみたい妻は衣を脱がしてしまいます。さぁ大変、妻は怒り狂い代わりに自分が座禅をして夫を待っているといいます。さぁ夫の運命やいかに。。。

 ざっとこんなもんでしょう。詳しいことかいてもあんまりよくわからんだろうし、かいつまんだ説明で意外と結構詳しく説明できちゃってるしみたいな。だから歌舞伎ってそんくらい簡単なものなんですね。もちろん歌舞伎は能とは違い大衆に向けた文化ですから、教養のないひとでも楽しめることが前提です。歌舞伎はエンターテイメントです。感想はといいますと。新鮮で内容もおもしろくて楽しめましたが、俺には歌舞伎を深くまで楽しめるような素養はない気がします。素養っていってもわかりにくいかもしれんけど、なんていうか歌舞伎とか能とか狂言とかを受け入れるだけの知識も興味関心もありませんっていうことだわね。なんてダメな日本人でしょう。こんな日本人がいたほうがいいのでしょうか!!疑問です。でも素直な感想で、すぐ観に行くか?って言われてもいや別にいいやってなる気がいたします。歌舞伎自体は時間も長いわけではなく飽きずに鑑賞することができるのですが、なんか壁がありましたね。バカの壁でしょうか。もう何回か挑戦してみてそれでもつまらない。。。。いやつまるんだけど、なんていうか歌舞伎の世界に入り込めない?ならおそらくもうちょっと歳を重ねないとだめですね。

 みなさん!歌舞伎は伝統芸能です。体の文化ですよ!日本人のエッセンスが詰め込まれてます。是非ご鑑賞ください!!ただし蓼食う虫も好き好きです。私みたいに非国民であることもありえます。ちょっと言いすぎかw

2010年7月3日土曜日

チベット問題って?


 そんな疑問に答えてくれるのがこの本、『「チベット問題」を読み解く』著者:大井功です。みなさんはどれほどチベット問題について知っているでしょうか?いや、どれほどチベットについて知っているでしょうか?おれが思うにみなさんは全然しらないことでしょう。もちろん知る機会に触れることがないのが原因でもあるわけですが。。。そしてたらどうしてその機会がない、もしくは少ないのか知っていますか?どうして今、チベット問題なのでしょう。個人的には世界のことについてもっともっとみんな知るべきだと思います。もちろん日本のこともですが。そんなときにこの本を読んでみてください。著者の方はおそらく大変な知識の量のもちぬしであります。そういった方の書く本はとてもおもしろくて考えさせられますね。

 内容は、チベット問題とは何かからはいり、チベット問題に絡む問題をわかりやすく明快に解き明かしていきます。みなさんはチベットが現在国でないことはご存知ですか?どうしてチベットの人たちが亡命してるかご存知ですか?そんな疑問にも答えられないでアジアの住民として納得ですか?読者は否応なしにチベット問題の関係者になります。この本を読んでもそんなの中国の内政の問題じゃん?とか、俺らには関係ないし!っていうやつは限りなくくずに近いです。最近人生で初めて?かわからんけど、人間のクズを見ました。みなさんをそれと一緒にはしたくありません。関係ないではすまされない時代がもうとっくに来ています。日本人の意識は平和ボケをしているので完全に遅れています。世界を知らなすぎます。海の孤島とか行ってられません。私達のすぐ隣には強靭な狂人達が住んでいます。いつどんなときに襲われるかわかりません。だからもっと敏感にアジア問題、ひいては世界の問題を知るべきです。あなたはある日突然、日本人をやめられますか?そんな覚悟はないはずです。でもチベットの人たちは中国によって強制的にその立場に置かれました。一元的に中国全体が悪いというわけではありません。そんな認識くらいしかチベット問題を知らないという方も是非この機会に読んでください。欧州の情勢は複雑怪奇みたいな言葉がありましたが、アジアの情勢も立派に複雑怪奇です。だからこそたくさんの視点を本から手に入れて、あなたができることをしましょう。知らないのは罪です。「知れない」ならまだしも「知ろうとしない」のはオバガチャンのやることです。おいらはこの本を読んでダライ・ラマ14世に会いたくなりました(ミーハーですみません)。ちなみにダライはモンゴル語で「大きな海」という意味で、ラマは師を表す敬称です。



「知識を増やさないことを恥だと思えるような社会作りを推進する会」7/3,2010

New york, I love you




おいらはもう一本の方であるオムニバス映画『New york, I love you』(監督多数)について書こうと思います。この映画はなんといっても豪華キャストをつかいまくってさらに使い捨てるというまことにニューヨーカーな感じの映画です。友達が言っていましたが、「この映画で監督は映画を作る練習をしてるんじゃないの?」という意見は同意はしませんが、あながち間違いでもないように思われます。なぜなら監督を務めた方のなかにはハリウッドの女優などの監督経験のない?少ない?方が散見されるからです。そして二時間くらいの映画の中に6も7も物語を入れるから映画としてはあんまりインパクトとかは感じられません(ところどころの物語はつながってたりします)。短い時間の中でいかにニューヨークの恋物語を理解させるか伝えるかが問題ですね。結果としてある意味成功、ある意味失敗(意味はありません)だった気がします。個人的には老人編が好きです。人としてはナタリーポートマンの顔が好きです。


 New york、そこは様々な人種さまざまな宗教、さまざまな人間が住む混沌としたリベラルなCityです。そこのCityで繰り広げられる恋ももちろんそれを反映し複雑で一筋縄ではいかないものばかりです。しかし、それを楽しむのもNewyorkerの心得といわんばかりに色んな恋が映し出されます。「よぉ。お前ら憶えとけよ。Newyorkはこんな町なんだぜ。」って言われてる感じです。でもそれでいいです。この映画はそれでいいのです。あぁNewyorkって刺激にあふれていておもしろそうな町だな、一度でいいから行ってみたいなと思えればこの映画はいいのです。だから『New york, I love you』なわけですな。そういう俺もあらゆる肉体関係を求めて今すぐNew yorkに旅に行きたい気分にさせられました。アメリカの中でもかなり人種の入り乱れる地域でかつアメリカ随一のリベラル場所で、かつアメリカの中でお金もちがたくさんすんでいるNew york。そんな町に行く前にこの映画で予行練習をしといたらいかがでしょうか。


追伸 パリ編もあります。上海編も上映予定です。

2010年6月22日火曜日

「死」はあるが、無い。


 早速、俺の大好きな意味深なタイトルを付けてみました。これは俺が考えた映画『私の中のあなた』における結論です。あんま時間をかけたくないので適当に書きます。

 まず内容。ある一人の少女が白血病であることを知った両親は途方にくれます。そんなとき医師からオフレコでとんでもない方法を聞きます。それはー白血病のドナーの名目で意図的に操作した赤ちゃんを作ることでーす。とんでもないことをこの両親は助けたい一心でしちゃいます。そんでもって生まれてきたのが「ドナーチャイルド」です。彼女の存在意義は姉を助けることです。なんともかなしや。しかし、彼女ももちろん普通の人間なので成長します。そして「考え」を持つようになるわけですね。そしてある日彼女は弁護士にこう相談しマース。「私の体を守るために、両親を訴えます。」。っておーい!ずいぶんおもいきった態度にでてなー。っていう感じですね。そんでもって両親というか自分のキャリアや人生を白血病の娘にささげてきたお母さんがぶち切れまーす。どうして?の連呼です。そんなこといってもーっと思うかもしれませんが、それほどお母さんはこの娘を愛しているのでーす。ある意味愛は盲目ですね。そんなこんなで過去を振り返ったりしながらストーリーが展開していきまして、ある真相が発覚しまーす。なかなか泣かせる意味深い真相です。真相が発覚してもうすごいことになるまーす。そんな感じの映画です。

 かなり適当に書いてみました。そんでもって感想はネタバレになるので見てない人は見ないでください。ひとつだけ言いますが、この映画普通におもしろいです。結構観ることをオススメする映画です。子役の女の子とか普通に好きです。「この子を娘にしたいよ宣言」に組み込まれました。リトルミオスサンシャインのときにはあんなだったのにいまではすっかり大人になっていました。ならなんで適当に書いたかといいますと、ショーシャンクの感想にめっちゃ時間をとられたからです。それでは感想。













 
 


 結局、お姉ちゃんは死にます。しかし、言い方はあれだけどここからが本当にこの作品の言いたい部分かと思います。つまり「死」はあるが無い。ですね。どんな意味かといいますと、「死」は確かにあるんだけどそれはほかの人にとってあるのであって死んだ本人には無いんですね。ちょっと哲学的だけどおもしろい。そしてほかの人にとって在る「死」も決して特別な何かではないんですね。「死」という事実があるだけなんですよ。んでもってその事実が人を悲しませたりするわけだけどそれもちょっと違うんだよね。だって「死」自体が何かなんてわからないわけだから。わからないことにかなしんだりできないでしょ。でもじゃあなにがあるのかっていったら「死んだ人」との記憶だったり思い出だったりするわけさ。つながりみたいなものだわね。それがつながりのある人の心に残るわけね。だからこれも「死」はあるけど無いってことなんだわね。ある死を認識してというか受け入れて、そういうことに気づくんだわね人ってものは。「死」は無い。ってことを認識する受け入れる。でも確かに愛しの娘は死んでいる。ここが難しい。俺にだってまったくわかんない。この文が何を言ってるのかもよくわかんない。でも「死」を扱ってるから仕方ない。誰にもわかんないからね。ってちょっと尊敬する「池田晶子」さん風に感想を書いてみましたが支離滅裂かもしれません。