
孝が“適当に”選んだ本を読みました。ショーペンハウワーの著書『読書について 他二編』です。こんな本今には絶対にないだろうなっていう本でおもしろかったです。それとこれを読んだときに「孝の野郎俺への嫌味でこの本を読ませたのか?」と考えてしまいました。それは内容を紹介すればわかると思います。
内容はいたって単純。内容のほとんどが19世紀のドイツにおける文学や言語使用の劣化をするどく指摘してそれを憂いでいるというものです。100ページくらい現代(19世紀)の作家や新聞を書く人、文筆家などの悪口です。あいつらのせいで今の文学はひどい状況じゃないか!とキレまくりです。それに対してどうしたらその状況を改善できるかという提言もちょこちょこなされています。現代の本を書く多くのひとは「お金のために」「名誉のために」「自分の能力を誇示するために」何より「本を書くために」本を書いていると指摘しています。だから現代に発行されているもの(新書)は読むに値しない。いやむしろ時間とお金を奪うだけで読者にはなんの益もないと述べています。それらの人々の比較として思想家を上げています。彼らは三文文筆家とは違って自分の「思考」を簡潔明瞭に誰にでもわかるように正しい言語の使いかたをもって書いているので彼らの本は読むに値するすばらしいものだと述べています。よい本とは作者の「思考」が書かれている本だとしています。対してダメな本は、難しい表現や雑な言語使用で結局なにが言いたいのかわからず読者を闇に吸い込むようなものであるとしています。作者は「思考」することがないよりも大事だと述べています。自分で考えなければダメだって言ってます。だから今の新書などを一日に多読する人は他人の思考をなぞるだけで自分で考えようとしないので「読書はしすぎでもダメ」と述べているわけです。でも古人には多くの優れた人物達がいるのでそういう人たちの本を読むなら自らの思考も喚起されるのでよいとしています。でもやっぱり読むだけではなく「自分で考える」作業がなによりも大事なものだとしつこいくらい述べています。このショーペンハウワーの指摘は現在に通じるものがあるのではないでしょうか・・・
本当はもっといいこと書いてありますが伝え切れません。なによりもう覚えてません。